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遊悠舎京すずめニュース

79回京すずめ学校講義録 

箔屋野口における講演について

講師  箔屋野口 第4代目当主 野口康氏

2014921日(日)

店の名前は箔屋野口といいます。

金の値段が、この10年で3倍(1グラム1,500円から4,500円になった)に上がってしまいましたので、金箔を帯の材料では使えなくなってしまい、現在では、作品の素材だけに使うようになっています。

今日、皆さんにお話しするのは、「箔」についてと、お得意先のご主人に尋ねられた日本絵画(金壁画)に使われてきた金箔に対する疑問を、20年間くらいかけて「発見して、ちょっと有名になった話」です。

この店は明治10年くらいに室町仏光寺下ルで創業しました。そのころは、明治天皇が東京に行かれて、西陣もさびれていました。この店は、野口金糸平金製造所という名でアジアに金糸や平金を輸出していたようです。

私は、4代目になりますが、若いころは店を継ぐ気はなく、写真家になるために、日大で写真科に入学しました。4年のときに学園紛争があり、中退して京都に戻ってきました。金銀箔をさわり始めたら面白いので、今に至っています。

紅白梅図は、東京文化財研究所とNHKを相手に論争を始めることになっていますが、これは自分の運命だと感じています。(これについては、野口さんご自身が書いたと思われるHPの内容を、参考資料として末尾につけてあります。)

この家は、明治22年に伊吹さんという方が建てた家で、戦前に祖父が譲り受けたものです。私は4代ですが、京都では、お茶の中村宗哲でも10数代で、神社なんかでは30数代と言ったりして、限りのない話になっています。

 箔について

今日は、ちょっと難しい話になります。

この紙は三叉(みつまた)です。お札の素材に似ています。これに柿渋を塗っています。この柿渋を塗る専門業者は、京都で1軒だけなんですが、その店もいずれやめると言っています。

その上に漆を塗ります。漆の塗り具合で、艶のあるなしを作ります。金箔を艶のある方に塗ったり、艶のない方に塗ったりして、違いを出します。

金箔は、後ろから光を当てると緑色になります。網目のように見えているのは、箔打ち紙のデコボコです。

金箔を筒の中に入れて粉のように降りかけます。

近年までは、純金の箔を作るのは難しくてできませんでした。そこで1%から5%の銀を溶かして混ぜます。それを圧延機で伸ばします。圧延機で伸ばせるだけ伸ばして、そのあと、紙で挟んで電動のハンマーでたたきます。昔は、金塊をたたいて、できるだけ薄くして、それから紙に挟んでたたきました。明治末期になって電気ができて、電動箔打ち機が作られると手でたたける人はいなくなりました。

箔打ち機でたたいて伸ばしたら、切り分けて、また、たたきます。伸びたら切り分け、たたくを繰り返します。1万分の1ミリくらいにまでします。この値は理論的なもので、目方と箔の枚数から計算して分かるものですが、最新の機器では計測できるようになりました。この厚さは、金の物理的な性質によるものですから、現代でも江戸時代でも変わりません。

そして、四角形の各辺が膨らんだ金箔ができます。中心部から正方形を切り取って、周りの部分が売られます。このように袋に入れてあります。周りの部分だけが貯まって10グラムになると、10年前は1万5千円プラス3千円(手数料と儲け)で売られていましたが、今は5万円以上します。

(この破片が、後半の話でカギになります。)

素材は3割高くなると使えなくなりますが、今は3倍以上になってしまって、織屋さんの注文も止まってしましました。1枚に2~3グラム使っていますが、もう織物には使えません。

この箔紙は30年くらい前にデザインしたものですが、宗哲本阿弥光悦の銘不二山(国宝)富士の茶碗をイメージして作るよう依頼があったものです。

この楕円形の柄のもので、説明します。これを細かく切ったものが、これですが、これを横糸にして織ります。そうすると、織上った時に、真ん丸になります。

縦と横の比が決まっていて、その通り織ればいいんですが、実際はマルの部分は1日のうちに織ってしまわないとマルになりません。途中で止めるとずれてしまいます。

細く切るのは、大正時代くらいから電気電動の裁断機になりましたが、それまでは手で切っていました。電気で切れるようになった時も、当初はこんな小さな(幅の狭い)包丁を使っていました。この包丁で幅が3倍近くある紙をどのように切っていたか分かりますか?

当時は、紙をたたんで切っていました。このことを知っている人は、西陣でももうほとんどいません。当時、切った後、束ねた状態のまま売られていたものが、このように残っています。

帯1本に、紙が5枚から7枚くらい使われます。そのため、紙と紙の間でも柄が繋がっているようにしておきます。

佐賀錦は金銀の箔糸を経糸(たていと)に用いています。

発見について

兄は、家を継ぐ気が全くなくて建築家になりました。私も継ぐ気はなかったんですが、学園紛争で身が危なくなって、東京から逃げて帰ってきました。やっていると面白いし、今に至っているわけです。

若いときは、毎月200万から250万の金箔を使って、作りました。金沢の箔屋さんから仕入れて、現金で購入します。京都にも、俵屋さんの横に、御池通りに面して、箔屋さんがあります。

40年以上前のある時、得意先さんから、江戸時代の金箔のような四角の中の線を作れと注文されました。

四角の金箔の中に、意味のない線、砕けた梯子のような線が、あります。縦に向いたり、横を向いたりしています。この等伯の絵にもあります。この宗達の風神雷神図にも、このように線があります。

書かれた当時は、このような線はなく、古くなってきたから線が出てきたと、何の疑いもなく思われてきていました。線を解釈する意味はなく、当然、無地だったと信じていました。それを作れと得意先から言われました。

私は、たまたま、日吉ヶ丘高校の日本画学科を卒業です。日本初の画学校の流れをくんでいます。日本画の有名な先生がたくさんいて、いろいろな先生に尋ねましたが、分からないと言われました。

これは、光琳の杜若燕子花(かきつばた、国宝)の本です。本物は、東京の根津美術館にあります。千枚以上の箔が貼られています。そして、このように線が出ています。得意先さんは、その線を活かしたものを欲しいと思いましたが、学者の先生も、最初は私も全然気が付きませんでした。

箔屋の社長にも尋ねました。うちの箔は、そんな傷はないと言われました。

答えが出ないまま、毎日毎日、箔を使ってこの紙を作っていました。毎月、200万から250万円かかります。ある時、袋の中から出した切れ端を眺めているときに、線が出る作り方が分かりました。この切れ端を見て分かったと言ったので、もうわかる方がおられますか?

正方形をくりぬくのではなく、この箔片をつかって、絵に合わせていきますと、この場所は、この箔片をつなぎ合わせたものだと分かります。この場所は、この箔片とこの箔片を使いますと、同じ形になります。宗達の時代は、両側に丸い部分をおいて、竹の梯子のような形になります。

これで、解決したと思ったときは、10年以上、合わせて、約50キロの金箔を使っていました。20数年前ですが、計算すると3億円くらい使っていたことになります。こんな簡単な答えを見つけるのに20年と3億円がかかったということが分かり、苦笑しました。

当時の絵(金碧画)の箔をよく見ると、箔打ちしたときの中心部が分かることに気が付きました。自分でも結構大きな発見をしたと思っておりましたところ、その後、何年かしたら光琳の本が出て、精密な部分を手軽に見ることができるようになりました。これは、燕子花ですが、眺めていて、あることを発見しました。

こちらは等伯の波濤図です。この中には、縦の線と、横の線が、いり混じっています。ここが垂直、ここが水平です。ランダムに配置されています。

ところが、燕子花に限って、水平は1枚もなく、全てが垂直です。線は、全部垂直で、水平はありません。箔は千枚以上あります。更に、線と線の間は、衝突するくらいに細くしてあります。この作業は、大変難しいです。

では、なぜ、こうしたのか?光琳はこれ以外にも数作で同じ試みをしていますが、完璧なのはこの絵です。その答えを考えてみました。

光琳は、太田神社の杜若を写生してこの絵を作ったと言われています。そこの写真を取ってきましたが、新しい新芽が、左右に揺らぎながら天を目指す、命のエネルギーが上昇していく感じが分かります。光琳は、この線をそろえることで、この命のエネルギーを表現したと考えています。それ以外、縦にそろえた意味が分かりません。光琳は偉大だと思いました。線が光で、明るくなったり、暗くなったりします。正面からは光る、斜めからは暗くなる。このことを谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」(いんえいらいさん)の中で、歩みを進めると今まで暗かったところが、ピカッと光ると記しています。

私の話は、これで、終わらせていただきます。

同じく尾形光琳の「紅白梅図屏風」も有名です。

尾形光琳「金箔偽装論争」― 東京文化財研究所の科学調査

  私はいま東京文化財研究所を相手に論争を挑んでいます。
 2004年の2月に、尾形光琳の代表作「紅白梅図屏風」を所蔵するMOA美術館のシンポジウムで、東京文化財研究所 (東文研)が紅白梅図屏風の科学調査結果について発表を行いました。紅白梅図屏風はそれまで、金地部分には金箔が、 流水部分には銀箔が使われていると考えられていました、箔を張ったときにあらわれる「箔足」 と呼ばれます升目模様があるからです。しかし東文研は「金箔」「銀箔」は使われておらず、 箔を張ったように見せかけるために箔足を手で書いたと発表したのです。
 この調査からシンポジウムにいたるまでが、NHKスペシャル「光琳 解き明かされた国宝の謎」 として放送されたことで、この説は一気に広まりました。番組の中で、金地部分は金箔を細かく砕いた「金泥」 を塗ったもので、箔足は後から書き入れたものだと結論付けていました。
 東文研の「論」は、「紅白梅図屏風」の流水部分から「銀」が一部からしか検出されなかったことにもとづいて、「あの『箔足』 はあとから書き加えられたものである」ということが出発点でした。精巧に「箔足」を描く技術を持ってすれば金箔も 「金泥」で置き換えられ、金の含有量の少なさなどもそれで説明できるというのです。
  MOA美術館所蔵紅白梅図屏風

美術史界に論争を挑む。

  これには驚きました。 今まで慣れ親しんできた尾形光琳の代表作が箔を使っていない「だまし絵」 だったなどという事は私に言わせれば絶対にありえない「でたらめ」だからです、 金の含有量が少なかったり不均質なのは、 江戸時代の純度の低い金箔と現代の純度の高い金箔の違いで説明できますし、 第一「金泥」を使えば「金箔」 よりも同一面積の金の検出量が多くないといけないのです。この研究者は当時の「金箔」 のことが全然わかってないなと思いました。箔職人としてこんな「でたらめ」は許せない、 証明ができるのは箔職人である自分だけだ。と、思いまして、知人を通じて東文研の早川泰弘・ 研究室長に疑問を投げかけてみたわけです。
 早川氏から、反論の手紙も頂きました。手紙の中に、中央公論出版から発売されている『国宝 紅白梅図屏風』 に研究の詳しい内容が、高精細デジタル画像や透過X線写真などとともに収録されるから、 それを読んでから反論をしなさいということも書いてありましたので、26,250 (税込) と大変高価な本だったわけですけど、しょうがないので買いました(笑)。
 *右が金箔、 左が金泥、「台紙は鳥の子三号に膠で貼ったもの」

「箔」を使って「箔」を残さず。

   早川氏はこの流水部分の謎(=銀が検出されない) を解けば、 会って話を聞いてくれると私の友人に言っておられたとのことで、私はこの謎に挑むことにしました。 結論から言いますと 「箔足」を手で描くことは不可能であり、光琳は一度「銀箔」 を一枚一枚が重ならないように隙間を空けて貼り付け、 全面に墨を塗ってから銀箔をはがすことで、 隙間の部分に墨が残るので「箔足」のような線を描くことができたのです。
これは写真の技術の応用です。私は大学では写真を専攻していたので、この方法を思いつきました。
 そして、この説を証明するために、実際に光琳の作品を自分で再現もして、3年がかりで論文にして発表したのですが、 論文なんて書いた経験もなく、楽しい苦労をしました。
 * 箔を使わなくては写真のようには描けない

江戸時代の絵画の修復や模写に役立てたい

   反論は出来上がったのですが、 なにせ東文研といえば世間では 「権威」 です。 その東文研の「新説」 NHKに大々的に取り上げられたこともあって、いまだに「定説」 ように扱われています。
 NHKの関係者やMOA美術館の方、番組に出演していた美術史研究家など、 名前は明かせませんが多くの人に論文を送ったり話を聞いてもらったりしました。概ね賛同いただいた方も多いのですが、 東文研とはいまだに決着をつけられずにいます。
 私は自分の反論に確信を持っていますから、再び「金箔偽装論争」 が盛り上がって多くの人に知ってもらえればと願っています。何より、当時の箔の構造がわかることで、 絵画の修復や模写に役立つと考えています。
 *作品の修復作業


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