topics

HOME > トピックス&ニュース > 第82回京すずめ学校のご報告「~伝統産業の代表格・清水焼の雲楽窯で学ぶ陶器~」

遊悠舎京すずめニュース

82回京すずめ学校レジュメ

~伝統産業の代表格・清水焼の雲楽窯で学ぶ陶器~

於 雲楽窯

2015118日 遊悠舎京すずめ 土居好江

講師プロフィール

齋藤雲楽氏

 三代目雲楽窯ご当主、 京都清水焼伝統産業技術功労者、京都清水焼伝統工芸士、昭和3年、五条坂に生まれ、父である二代目雲楽氏に師事、昭和25年三代目雲楽を襲名。昭和38年、全国で初めて電気釜を導入し、熟成を研究し成功させ、更に雲楽窯独創の釉薬「青抹陶」「赤抹陶」を開発して、独特の風合いを保ち、乾山風の枯淡な絵柄は雲楽ブランドとして高い評価を得て、清水焼の新たな境地をつくりだしました。昭和45年に清水焼団地に移転。

西澤瑞穂氏

昭和35年、雲楽窯三代目斉藤雲楽氏の次女として東山五条坂で誕生。幼少の頃から工房で作業する父の姿を見て育ち、成安短期大学で日本画を学ぶ。

その後京都府立陶工高等技術専門学校 ろくろ成形課にて研修を積み、京都市産業技術研究所(旧工業技術センター)にて、釉薬本科を卒業、釉薬研究所を経て実家の京都雲楽窯に戻る。

2年程前から新たな挑戦を開始し、清水焼を世界へ発信するためのプロジェクトを準備中で、今後の活躍が期待される。

現在は京都雲楽窯店長及び下絵付けデザイン等を担当している。KLMオランダ航空機内誌取材等、国内外の多くの取材を受ける。


雲楽窯

創業120年の窯元では、他の窯元では作れない1200度の高温での焼き物ができるため、清水焼の新境地を開き、雲楽独自の釉薬「青抹陶

「赤抹陶」は深みのある地色と乾山風の枯淡な絵柄で雲楽ブランドを築いています。

山科について

 縄文・弥生時代から山科には人が定住していました。飛鳥時代「大化の改新」で功績のあった中臣鎌足が邸宅を建てて以来、山科は皇室や貴族とも深い関わりがあります。

天智天皇は667年飛鳥から近江大津に都を移転しますが、これは山科との位置関係を重視した鎌足の勧めによるものと考えられます。『日本書記』には山科で天智天皇が遊猟したと記録があり、天地天皇陵が山科御陵に造られたのも、山科をことのほか愛していた天智天皇ご自身の御意志であるとされています。

平安時代には、山科は山城国宇治郡山科郷と呼ばれていました。また、山科にゆかりのある宇多天皇の女御は山科出身であり、その子醍醐天皇は山科に多大な貢献をします。

 中世には宗教都市として、山科本願寺・寺内町(じないちょう)が蓮如上人によって築かれます。また「忠臣蔵」ゆかりの地としても有名です。清水焼団地の近くにも大石神社があります。

 明治13年には京都・大津間に鉄道が開通しますが、現在のルートとは大きく異なり、追分から勧修寺を経て深草方面に抜けるもので、山科駅は勧修寺の近くにありました。

 明治18年から5年の歳月をかけて建設された琵琶湖疏水は山科においても船による運送の便が多大な経済効果をもたらしました。

 昭和6年には山科、醍醐が宇治郡から独立して山科区は東山区に編入され、昭和51年に山科区が誕生しました。

 また志賀直哉(18831971)は大正12(1924)10月に粟田口三条から山科竹鼻立原町に居を移し、大正144月まで山科に住み、多くの作品を遺しました。『山科の記憶』『痴情』『晩秋』等がこの山科で生み出されました。

清水焼団地

 昭和30年代までは東山五条坂周辺で釜場がありましたが、煙害が問題となり、新たな工業団地として、昭和37年に山科・清水焼団地が誕生しました。五条からは山を一つ越えた東側にあたります。

 昭和の高度経済成長の時代には五条坂あたりの人家の洗濯物が煙で黒ずんだと言います。また、工場の廻りに家が建ち騒音も激しくなり、移転構想が誕生しました。まだ、国も市も工業団地という発想の無い時代でしたが、10人程の発起人が集まり構想実現に動きだしました。

やきものの歴史

 日本では縄文時代からやきものがあり、16500年前の縄文土器が青森県から出土されています。次に古い土器は弥生土器で紀元前2世紀~3世紀のものです。埴輪や水器、鍋、鉢等が作られています。

清水焼の歴史

 清水焼のルーツは諸説ありますが、そのひとつは約400年前に仁和寺門前で開窯した野々村仁清やその弟子・尾形乾山により、今日の京焼・清水寺の基礎がつくられたという説です。

乾山は兄の尾形光琳との合作により、デザイン化された作風をつくり、貴族や茶人、僧侶に深い繋がりを持ち、優れた作風をつくりだしました。

 京都の焼き物を総称して京焼と申しますが、江戸時代には粟田口焼、御室焼、音羽焼、修学院焼等ありました。清水焼も京焼のひとつです

 清水焼は文化年間(1804年~1818)に五条坂で磁器、染付が量産されるようになり、京焼の代表格になりました。

尾形光琳と尾形乾山

 光琳の本名は方祝(まさとき)。5歳年下の弟は本名を権平(ごんべい)京焼の名手乾山(けんざん)として陶芸で活躍し、弟の乾山はもの静かで読書好きで、兄とは対照的であったと言われています。曾祖母の弟が本阿弥光悦です。

光琳は呉服商であった実家を継いだものの、浪費癖は止まず、35歳の時に破産し、広大な屋敷も人手にわたり上御霊神社前に移りました。弟の乾山は自立するために仁清から陶法を学び6年後に鳴滝に窯を構えます。自活する弟を見て、光琳も絵筆で立つ決意をして作品づくりに勤しむようになります。

この鳴滝には二条家の山屋敷があり、関白・二条綱平(にじょうつなひら)は尾形光琳や乾山の後援者となります。元禄12(1699)に二条綱平から山屋敷を譲り受けて窯を始めて開くのです。この場所が都の西北・乾(いぬい)の方向にあたるということで、窯名を乾山とし、自らも号としても用いました。この頃にはすでに有名になっていた光琳の協力で兄弟合作の作品も多く制作し、ここで13年間制作しました。光琳が新しく土地を買った翌年、正徳2(1712)に乾山が寺町に移転し鳴滝の乾山窯元は終わりました。

洛中から遠い鳴滝よりも東山・清水のいろいろな窯元に依頼して、一般受けする美しい食器類をつくり生計をたてます。商売は繁盛したのですが、享保16(1731)69歳の時江戸へ行き、入谷に居をかまえ江戸で晩年を暮らし寛保3(1743)81歳で生涯を終えました。江戸へ行き、二度と京都へは戻りませんでしたが、その理由は現在も分かりません。

昭和5年に乾山窯が発見されて、平成12年から乾山ゆかりの発掘に5年をかけて調査しましたが、宇多野霊園の墓地造成のため窯跡の正確な位置は不明です。しかし、数多くの乾山焼陶片が出土しています。


82-回京すずめ学校雲楽先生.jpg

82-回京すずめ写真懇談.jpg

82回京すずめてびねりの様子.jpg

82回京すずめ瑞穂先生.jpg